大坂正明さん救援会

71年 11・14沖縄闘争に対する政治的デッチ上げ
大坂正明さんは無実です

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2020年05月

大坂正明同志の無罪奪還へ 連載 ⑤
「目撃供述」のうそを暴く大攻防
「前進」 第3132号(2020年5月18日)に掲載

 2017年6月28日に大坂正明同志がでっち上げ「殺人罪」で起訴されてからまもなく3年になろうとしている。大坂同志と弁護団は東京地裁(刑事第4部永渕健一裁判長)と対決し、徹底的に闘いぬいている。これまでに2回の公判前整理手続が行われた(3回目はコロナ情勢で延期、期日未定)。弁護団と裁判官・検察官による三者協議は既に25回を数え、毎回激しい攻防が繰り広げられている。

  長期勾留はね返し権力圧倒
 大坂同志は第2回公判前整理手続(2019年3月、非公開)で、本裁判への怒りの意見陳述書を裁判所と検察官につきつけた。「私は無実だ」と力強く宣言する大坂同志の姿に、検事も裁判官も圧倒されている。でっち上げを維持し大坂同志に屈服させるためだけに続けられている未決勾留は、3年の長期にわたる。一貫して接見禁止決定が続き、弁護人しか面会できない。友人や支援者が東京拘置所に花を差入れに行っても認められない。 今年に入り悪化した鼻ポリープにより鼻呼吸ができない状態であるにもかかわらず、東京拘置所は「ここでは手術はできない。早く『卒業』して外でやりなさい」などと医療放棄の言を吐く。身柄を拘禁し自由を奪っておきながら、病気や疾患を治療しようとしないのは人命の軽視、明々白々な人権侵害だ。
 大坂同志は4月に入って耳の不調を訴え、東京拘置所は5月7日に検査を行った。結果は「鼓膜が膨張している。鼻を直さないと耳は治らない」という。ならば、ただちに鼻の手術を行え!
 大坂同志の命と健康を絶対に守り抜こう。1971年11・14渋谷闘争をともに闘った星野文昭同志、奥深山幸男同志の闘いを引き継ぎ、沖縄闘争へのでっち上げ政治弾圧と不屈に闘う大坂同志を必ず奪還しよう。(奥深山同志は高崎経済大学で星野同志の後輩。11・14闘争に参加し殺人罪をでっち上げられ、星野同志と統一公判で闘った。一審判決後に拘禁症で公判停止となるが、2017年に亡くなるまで裁判所は免訴を行わなかった)

  起訴取り下げ直ちに解放を
 大坂同志と弁護団は、非公開で進む裁判手続きの中、以下の主張を鮮明に突きつけ裁判所と検察を追い詰めている。
①半世紀前の事件の裁判など成り立たない!
 大坂同志は指名手配と46年にわたり闘い抜いてきた。他に類を見ない闘いの地平が、国家権力をして裁判そのものの正当性を失わせている。でっち上げ調書を強制した中津川彰・元検事の立証主旨は「何も覚えていないこと」だという。違法な取調べの隠蔽だ。星野同志の再審で問題となった、事件現場を撮影したというニュース映像は「警察がなくしたから存在しない」と言う。弁護側が開示を求めるデモ参加者の検察官調書の多くが「ルールに則(のっと)って適切に廃棄された」という。これで裁判ができるというのか!
 事件の証人は月日の経過とともに高齢化し鬼籍に入る人も絶えない。検事が重要な証拠を「なくした」と主張する裁判など、直ちにやめろ。いますぐ大坂同志の起訴を取り下げよ。裁判所は免訴の判決を出せ。
②沖縄闘争は正義だ
 大坂同志と弁護団の堂々たる主張は、階級裁判を闘い抜く宣言だ。大坂同志の獄中アピールは、いつも沖縄民衆の闘いへの連帯が貫かれている。「人生をかけた沖縄闘争」の迫力で新たな沖縄の証人も獲得し、沖縄の闘いと一体となって権力に迫っている。
③供述調書はでっち上げ
 大坂同志が機動隊員を殴打したというのは、でっち上げであるがゆえに検事の立証構造は脆弱(ぜいじゃく)だ。見てもいないものを見たと言わされた群馬の学生4人の調書は矛盾だらけであり、「後ろ姿でわかった」といった推測や「工学院で見た人」といった決めつけにあふれている。心理学者2人が供述分析を行い、でっち上げられたものであることを全面的に明らかにした意見書をたたきつけた。
④裁判員制度と闘い国家権力を打倒する裁判
 大坂裁判は、2009年の裁判員制度開始以来初めての階級裁判だ。今や裁判員候補者の辞退率は8割に達し、制度の形骸化・破綻は明らかだ。大坂同志と弁護団を先頭に、裁判員制度を揺さぶり、労働者民衆の大結集で日帝の支配体制を根底から打ち砕く大裁判闘争としてかちとろう。
 大坂裁判は星野同志の闘いと一だ。星野同志を獄死させた国家権力を追及し打倒する国賠闘争が6月22日、第一回期日を迎える。権力への尽きることのない怒りを一つにして、星野・大坂の新たな闘いをつくろう。

大坂正明同志の無罪奪還へ 連載 ④
面識ない4人に「目撃証言」強要
「前進」 第3130号(2020年5月11日)に掲載

 大坂正明同志は、ペテン的沖縄返還協定の批准に反対して闘われた1971年11月14日の渋谷闘争で死亡した警察官の殴打に一切関わっていない。大坂同志の関与を示す物的証拠はゼロだ。唯一の「証拠」とされるのが、でっち上げられた4人の供述調書だ。
 大坂同志が「死亡した警察官を殴打していた」とうその供述をさせられた4人の少年たちはみな、群馬の学生だ。千葉工業大学の学生だった大坂同志と群馬の学生たちの接点はなく、供述者は大坂同志のことを知らない。しかもデモでは皆がヘルメットをかぶり、タオルやマスクで覆面をしている。このような状況で知らない人を特定することなど、そもそもできない。供述調書は、ハナからでたらめだ。

  誰も同志の顔を見ていない
 大坂同志が「死亡した警察官を殴打していた」といううその供述をさせられた4人の証人たちは皆、群馬の学生だ。千葉工業大学の学生だった大坂同志と群馬の学生たちの接点はなく、供述者は大坂同志を知らない。しかもデモでは皆がヘルメットをかぶり、タオルやマスクで覆面をしている。このような状況で知らない人を特定するすることなどできない。供述調書は、はなからでたらめだ。
 4人は誰も大坂同志の顔を見ていない。C(殺人罪で起訴、当時17)は「後ろ姿でわかった」という。そして大坂同志の服装について「白っぽいブレザーと、同じようなズボンだった」と証言する。だがB(殺人罪で起訴、当時19)は現場写真(デモ隊が機動隊と衝突した神山交番前の様子を撮影した「唯一の物証」ともいえる写真。撮影した警察官の名から「中村写真帳」と呼ばれる)で上下黒色の服の人物を指して「大坂」だという。また、Eは中村写真帳でBが示した人物とは別人を指して大坂だと「特定」している。Dは「工学院で見た男の人は、茶色か黒のブレザーを着ていた」と供述し、中村写真帳で「大坂」を特定できなかった。
 大坂同志とされる「殴打者」の位置も行為も、供述者によってまったく異なる。機動隊員を後ろから殴っていた(E)、正面から殴っていた(C)、向かって左から殴っていた(BとD)。火炎びんを投げつけた(BとE)、「殺せ、殺せ」と叫んでいた(C)。
 この矛盾を解決できない検事は、「被告人の人着(人相、体格、服装、持物等)を主張するつもりはない」「(中村写真帳で)人物特定をしない」と言い続けている。弁護団の度重なる追及に、ついには「被告人は当日覆面をしていなかった可能性がある」などと言い始めた。でたらめにも程がある。

  「知った」「見た」場面ねつ造
 警察官殺害現場のでっち上げ供述調書は、デモ隊のリーダーだった星野文昭同志(高崎経済大学)を「殺人の実行犯」に仕立て上げるために作られたものだ。そこに大坂同志は「星野の隣にいたリーダー」として描かれる。だがそれは面識のないものに単独の写真を示し、名前を教えて供述を強要した違法捜査の代物だ。
 権力は、大坂同志のことを知らない学生に供述を強いるにあたり、彼らが大坂同志と「面識を持つに至った」理由まででっち上げた。「デモの準備のために11月12日、工学院大学を訪れ旗竿(さお)を作った時に見た人」というのだ。だが大坂同志は12日に工学院大学に行っていない。工学院大学を訪れた群馬の学生の代表だったCは、大坂同志と共に渋谷闘争に決起し起訴された奥深山幸男同志の第29回公判(1975年5月14日)で以下のように証言している。
  検察官 「大坂なんという人ですか」
  C証人 「正明という人です」
  検察官 「その人は、工学院ではどういうことがあったのですか」
  C証人 「いや、そこに居たというだけで何も話は聞きませんでした」
 Cは今回検事が大坂同志有罪立証の柱に据えている証人だ。そのCの証言は、初対面の「そこにいただけの人」で、言葉すら交わしていない。Bの調書では「以前何かのデモの際に見たことのある男で、今度警察で写真を見せられ」大坂だと判った人物が、Cに指示を出していたという。Dは「Cが大坂に話しかけた」と供述している。ここでも皆バラバラだ。
 工学院大学で「見た」という供述ができなかったEには、法政大学で11月15日に行われたという総括集会で大坂同志がデモ隊を代表して演説したとうそを言わせた。二重三重のでっち上げだ。
 これが、後ろ姿だろうが覆面をしていようが「見て分かった」というでっち上げ供述の中身だ。
 でたらめな供述調書にしがみつく東京地検・森中尚志を許さない。無実の大坂同志をいますぐ解放せよ!

大坂正明同志の無罪奪還へ 連載 ③
拷問・誘導で少年にウソの「供述」
「前進」 第3128号(2020年4月27日)に掲載
  「殺人罪」つきつけ屈服迫る
2020.2.21
2020年2月21日星野・大坂合同街宣(星野国賠裁判提訴)
 大坂正明同志は、機動隊員の死亡に一切関与していない。無実である。そもそも物的証拠は一切なく、検察・警察がデモに参加した学生を脅してねつ造した「供述調書」だけで「殺人罪」をでっち上げた。星野文昭同志、奥深山幸男同志へのでっち上げと全く同じだ。
 今回は、この「供述調書」が取調官の誘導と強制によりでっち上げられたものであることを暴く。

 1971年11・14闘争で機動隊員が死亡したことに大打撃を受けた捜査当局は、その「実行犯」をでっち上げるために総力をあげた。当初、反戦青年委員会に的を絞り青年労働者を見込みで次々と事後逮捕したが、完全黙秘の闘いででっち上げは頓挫した。
 デモ隊のリーダーが高崎経済大学の星野同志、奥深山同志、さらに千葉工業大学の大坂同志であると決めつけた捜査当局は、2か月後、黒色のヘルメットをかぶって11・14闘争に参加していた高崎経済大学の2人の学生(少年)を逮捕。取調べで「殺人罪をつけるぞ」と徹底的に脅し、知っている学生の名前を無理やり供述させた。その供述に基づき、群馬県下の学生をさらに11人逮捕(のちに星野同志を指名手配)。その中の4人に「大坂が機動隊員を殴打していた」と、ウソの供述をさせた。
 「調べはほぼ毎日、朝9時頃から夜の10時、11時だった。昼食も夕食も取調室だった。房に戻る時間もない。休み時間もない。ずっと取調べだった」「取調官の言う通り認めないと終わらなかった。精神的に本当に苦痛だった」。これは星野同志・奥深山同志の裁判で皆が一様に証言していることだ。
 特に「殺人罪」で再逮捕・起訴されたA、B、Cは全員「少年」だった。そのために逮捕から起訴まで2か月間も勾留され、取調べが強要された。まさに拷問である。
  Cは逮捕されて約2週間黙秘を貫いた。すると中津川彰検事は呼び寄せた両親を取調室に入れ、父親にCを殴らせた。Cは「取調室には中津川検事がいた。父親にこぶしで3回か4回殴られた。後で母親から、検事が殴るように言ったということを聞いた。ショックだった。黙秘していることに対する、心の支えがなくなった」と証言している。

  警察・検察が筋書きを作成
  Aは「現場検証に連れて行かれたとき、既に位置関係が石墨で道路に書いてあった。それを認めさせられた」と証言している。「僕自身、実感的に殴った記憶はない。しかし他の3人が私が殴ったと言っているのだから、お前が認めなくても、お前が殴ったのは確実だと迫ってくる。僕の取調べは、記憶を明らかにしろというものではなかった。他の人が言っているから認めろと強要するものだった」。
 他の人も「もうストーリーができあがっていて、それを認めるしかなかった」と言っている。取調官に強要されて、「星野や大坂が殴打した」とウソの供述をしたのだ。Dは調書に殴打者の名前を挙げたことについて、「検事が色々しゃべって、これもいたろうあれもいたろうと、お前は近くにいたのだ知らないわけない。知らないと言うならお前に殺人罪を付けるといことで仕方なく言ったことです。自分は記憶ないのに調書に書かれた」と証言している。
 中津川検事の取調べを受けた労働者Mは、当日闘争に参加していなかったKについて「現場にいた」との虚偽供述を強いられた。裁判でKはアリバイが明らかとなり無罪となった。
 Mは中津川の取調べを次のように暴露した。「長時間の調べと、しゃべらなかったら殺人罪で起訴すると、ずっと言われた。写真を見せられ、この中にいるだろうと、朝8時頃から明け方近くまで調べが続いて我慢ができなくなった」。
 違法、デタラメの限りをつくした中津川検事(現在は弁護士)を断じて許さない。
 大坂同志の裁判で、検事は中津川を証人申請している。その立証趣旨は「当時のことは覚えていない」ことだと言う。ふざけるな!
自己の犯した犯罪のすべてを明らかにせよ。違法デタラメの限りをつくした中津川検事(現在は弁護士)を断じて許さない。
無実の大坂同志を今すぐ解放せよ!

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